無造作に

眠りにつくまで、話をしよう

死生交差

先日、ついったーで一瞬トレンドになったのかな。あまり覚えてない。先日に自殺と自殺配信の事が話題になった。
それを知ってから、苦しくて苦しくて、胸のつかえがとれずにいる。沢山の意見が色んなところで飛び交う中、私は何も言えなかった。言葉が出なかった。自分の言葉を探したけれど、見つからなかった。只々その死を見つめていた。
自殺配信の事は、私は賛成とも反対とも言えない。その答えはすごく簡単で、下手をすれば自分もそちら側の人間になっていたからだ。ありえない話ではなかった。私が高校生の頃、配信アプリが無かったのもひとつの手助けだったかもしれない。自殺配信の話題を知って、時代の流れを感じた。ああ、こういう死に方もあるのかと思ってしまった。
彼女の環境や人柄をネットごしに知り、正直、境遇が似ていた彼女と自分を重ねてしまった。家族から虐げられる苦しみも、父親から受ける暴力屈辱の数々によってどれだけ自分が壊されたか、私は知ってしまっている。私は、私は”たまたま生き延びた”だけだった。彼女はあちら側へ飛んでしまった。
共感に似たこの感情をどうしたらいいか分からない。世間では自殺の善悪が問われる。「人に迷惑をかけるな」という人は山ほどいる。自殺配信をして世間にようやくスポットを当てられ彼女の苦しみに気づいた人々は、何を思うだろう。
私は、そこまで彼女を追い込んだ家族、特に父親がどうなったのか、少し気になった。その人には何か伝わったのだろうか。

本音は、彼女がそこまでしないと誰の目にも触れられなかったことが哀しかった。そこまでしないといけなかったのか、そればかり考えていた。もう彼女が死んでしまった今では、何も意味を成さない。

まぁ、これでどれだけ言葉を並べても、私が負った苦しみを誰かが完全に理解することは出来ないのと同じように、彼女の苦しみは、誰にも真に理解されることはない。只想像する事しか出来ないし、結局、私にできたのは彼女の死を見つめ続ける事だけだった。人は様々な事を目に入れる取捨選択の自由がある。目に入れたくなければ見なくていいのだ。それだけは確かなんだ。だから目を背けたい人は背けていい。

さっき書いた通り、私は自殺と自殺配信に関しては何も言えない。ずるいかもしれないけれど、それが答え。…出来るなら、しない方がいい。けれど彼らの叫びを否定することは出来ない。誰かに迷惑をかけて、誰かのトラウマと成りうる事も脳裏に浮かべて、彼らは自殺の一歩を踏み出す。そういう人達がいた事も、今現在苦しんでいる人がいる事も、目を背けずにいたいと思う。勿論自分が大丈夫な範囲で。


ふと自分の過去を思い返してみる。私自身が殺人にも自殺にも至らなかったのは、ある意味執念のようなものが働いていたからかもしれない。とある掲示板に家庭環境の相談を持ち掛けた。罪を犯してでも、復讐をしたいと、夜中に泣きながら打ち込んだのを覚えてる。そこの掲示板の人たちには「お前には未来がある。それを潰すような事をして己の人生を捨てるな」と言われ、それがひとつの道筋になった。復讐に駆られた心落ち着かせ、視界が広がる感覚がして、「自分はあの家から逃げていい」「どこかに行ける」と思うようになってからは、馬鹿な頭で適当ながらも、実家から離れている大学に進学した。これを言ってしまうとあれなのだけど、幸い自分には罪を犯そうとする手を止めてくれる友人もいたんだった。家に帰れない自分を受け入れてくれたり、只無気力な自分に選択肢を与えてくれた。

そういう事を思い返すと、自殺手前の人やアダルトチルドレンと呼ばれる生存者に、何かしらの支援してくれる人が必要なんだと思う。これは当たり前な結論。当事者にとっては明日も見えない状態だと、それを思考する余裕もなく、諦めてしまう人もいる。生き延びた私でさえ未だ自分を大切にする方法が分からない。

話が逸れたりよく分からなくなってしまった。

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これが、先日私が残したブログであった。
私は未だ、死に手招きをされて、「いい加減目を覚ませよ」と言われている。どんなに手を伸ばそうとしても、掴めないものも、届かないものもあって、その場で嗚咽だけが響いて、苦しみに苛まれるしかない。
私は自殺も殺人もすすめるつもりもない。
私は、あれから何も思考が出来ない。いくら思考してもその人の死を変えることは出来ない。どうか彼女があちら側では自由を手に入れられたことを願おう。