無造作に

眠りにつくまで、話をしよう

響かぬ心と伽藍洞な心音

最近、、記憶がぐちゃぐちゃになることが多い。
何を書きたかったのか分からない。けれど感情の濁流は止まらない。感情が胸から溢れ出ていて、この感情たちの処理の仕方が分からない。
ペンが置けない。筆が置けない。描くこともこうして文字にすることもやめられない。それはきっと誰かに見てほしかったからかもしれない。けれど、どちらかといえば、これは一人芝居に近い。ひとりで泣いて縋りたい手をすべてを薙いで、全力で己を否定したい。すべてを壊したくなる。また、こんな文章ですが、お付き合いしてください。
 
頑張っても、遠くに行っても、何も変われない。氷を食べて口の中がが痛い。昨日から左手が痛くてうまく動けない。上手くいかないことが多い。何も描けない。歯医者にも行けてなくて歯だかよくわからない場所が痛い。心が痛い。痛いことが痛い。段々右手も痛くなってきた。否定をしても何も変わらない。頑張っても何も変わらない。続けることで変わるのだと知っている。けれど自分は間違いなく間違ってて、矯正しようが無くて、自分は自分にしかなれない。自分はどこまでも自分で、自分にしか成れず、ひとは孤独である。だからこそ気づけることが多い。
苦しんで創作をしている僕を肯定してくれた人がいた。
その人は「苦しみがなければ創作活動はできません」と言った。
それなら、楽しく創作している人は何なんだ。
いつも眩しくて、自分もあんな風に楽しめたらいいのにと、思ってしまう。楽しい中での苦しみがあることは知ってる。創作の苦しみは知ってる。

じゃあどうしたらこの痛みは治癒されますか。創作とは自分と向き合うこと。自分の傷とも向き合うことだとその人は言った。これ以上何に向き合ったらいいんですか。これ以上何を否定すれば自分あきらめて死ねますか。どうしたら死に焦がれることをやめられますか。どうしたらこの確信を覆すことが出来ますか。